TORUS

写真と言葉たち

ビニール傘は素晴らしい発明品

夕方の帰宅中の人を望遠で撮ったらとうなるのかなと思い、試してみました。

意外と単なるビニール傘が何だかこの図の中では主役になったようで、女性が持っている少し傾いた角度で存在しているのが、なんだか生々しい。


写真とはその名の通り真実の真を写すものだな、というのを再認識しました。


多分右手でハンドバッグを持った手を耳の近くに持ってきているのはスマホで、今日買う惣菜の相談を連絡しあっているのかなあ?という感じでそれほど早くはない速度で歩いている感じです。


たったこの小さな画像からもなんだかこの方の様子が生々しく想像できるのも、たぶんビニール傘が格好良いカーブを描いて写っているからかも知れません。


確かにビニール製だと前もほぼ明るく見えるので、傘としての機能性からも形態からも、しかも値段もお手頃とは、正に素晴らしい発明品だなあ、というのを再確認しました。

やはりビニール傘を使っている人はかなり多いですね。


男性も撮ってみましたが、やはり絵にはなりずらいなあ。
やはり自分の趣向が出てきますよね。男は撮りたくない!


しかし、マスクをしてるから前から撮っても肖像権侵害は回避できそう?
だからって、マスク姿じゃあ絵にならんわね。
しかし、このマスク姿、街にいつまで続くのでしょうか?

水わだちの精霊

雨が降って汚れた空気や汚れたアスファルトの泥を洗い流したからなのだろうか?いつもの帰り道の交差点は、車のライトに照らされてなんだか煌びやかな雰囲気が漂っていました。


歩道を渡り終わったあたりに目には見えない何かがある様な気がして、少し立ち止まりファインダーを覗いて、いいところへ車が来た時にシャッターを切ってみました。


確かに白線とか、マンホールの蓋、歩道のラインとか、タクシーの動いている距離感とか、当たり前だけど生々しく現実の一部を切り取っている事は確認でき、改めてタクシーの運転手も歩行者との距離を十分に取った場所を通過していることは確認できる図にはなっていますよね。(・_・D フムフム。


でも、なんだか少し気になるところがあります。それは動いているタクシー。あたり前だけどシャッターは長めだったのでボケてはっきりとは映っていません。(、、、ところで、さすが、ブレ防止機能が利いてアスファルト面がクリアーですねえ。)でも、よく見るとタイヤの動いた後ろの処、に何やらモヤモヤしたものが写っています。何だろう、と思い拡大してみました。それがこれです。


これはシュゴイ!タイアの動いた後に水がはねてこんな模様が出来ていました。


これを科学的に考察すると、まずタイア幅の外側部分が水を左右に飛ばしてその次にタイアの中央部分が水を真上に引っ張って飛ばす、という現象が起きている風です。


本当に一瞬の間にしか現れない現象をハッキリとカメラはとらえていました。
そんな訳で、この現象の事を「水わだち」と勝手に命名しました。


人の目では見えない図をカメラを使えば見える訳で、この図は、神のいたずら、では大げさすぎるので、たぶん、水わだちの精霊が気が付いた人にだけ見せてくれた一瞬の映像なのかも知れませんよ。


最初に感じた煌びやかさの理由が写真を撮ってみて納得です。
しかし、このLUMIX GX7MK2 よく映ります。

無の心で電話ボックスのドアガラスに付く沢山の雨粒たち。


電話ボックスのドアガラスに沢山の雨粒が付いていた。
これを写真で録ったらどうなるのかを試してみた。


あれ?なにか意味がありそうな、なさそうな構図に、これは何だろう?
と思うと、そう、いくつかハッキリと分かる確かな事実がありそう。


それは、雨粒の大きさ。
どうもこのガラスに付くには最大の大きさはどうも5mm位までに決まっているようだ。
しかも、それぞれの雨粒の間隔もある長さ以下に決まっているようだ。


とすると、たぶん複雑な数式を駆使してコンピューターでシュミレーションすればこれと似たような画像は作れるのだろう。何しろ、ドライブゲームでも運転する窓ガラスに雨粒が流れるのも表現できているのだから、。

さてさて、ここには確かに雨粒が存在している訳なのだけれど、雨粒それぞれはここに取り付こうとしてここに来たのだろうか?いやいやそんな事はあり得ない。雨粒自体にそんな意思があるはずはないし、ひとつの自然現象としてここに存在したのだ。


そう、雨粒は複雑な数式を使うことなく、ただただ自然の法則に従い、言い換えれば、神の意志に従い、無の心でここに存在しているのだ。

ジェット機が飛び交う都市

目黒駅から高縄ゲートウエイ駅まで歩いてみた。

歩いている途中ズット気になったのは空を飛ぶジェット機だ。
それと高縄ゲートウエイ駅前の広大な何もない土地。


夕方だからサラリーマンの人が多いが毎日の事なので気にならないのかなあ?と思ったけれど、やはり気になるらしい、信号待ちでスマホを見ている人も大きな爆音で飛んでいくジェット機に時折目を向ける人がいる。


又、ゲートウエイ駅前はかなり広い範囲でまだ工事も始まっているのかどうかは分からない何もない空き地で、まあ、一つの工業地帯を作れるくらいの広さがあり、その上を夕方になるとジェット機が次から次へと通過している。

何年かするとここに高層ビルでも出来るのだろうか?だとすると、巨大な都市が新たに作られることになる可能性はあるのだろうが、さて、そのように景気の良くなる日本なのだろうか?


それに、広大な空き地とジェット機の組み合わせは何か違和感がある。
例えば巨大な経済地区が出来て沢山の人が集まる場所になったとして、その空の上に夕方になるとジェト機が飛び交う図はとても不自然ではないだろうか?。

実はとても嫌な例がある。


羽田空港の近くに、野犬の保護施設?ちょっとそう見えるだけで本当は?ですが、ありました。というか、今もあるけど当然動物も人もいません。なぜなら?真上をジェット機が飛び交っているからです。想像するに動物たちがジェット機の騒音がうるさくて騒いだのではないでしょうか?まあ、これは憶測ですが、そこは、人だって騒音で事務作業なんかできるような場所などではないのです。


おそらく、人がいられるような場所ではないので、動物なら構わないだろうと思いこの様な施設を作ったのでしょうが、案の定動物にも嫌われたのかもしれません。すべてこれらは私の憶測ですが、この高縄ゲートウエイを見て思い出してしまいました。


しかもゲートウエイとは、いろいろなものが交錯する場所です。ここに飛行機の騒音まで交錯したら都市としてどうなのでしょうか?。日本橋の上に高速道路を作ってしまうまるで日本を否定するような都市づくりをしてしまった二の舞になる危険がありはしませんかねえ?

もし私が美しい都市を作ろうとしたら、真上をジェット機が飛び交うような設計はしません。
しかし、日本をあまり好きではない人だったら逆にジェット機を飛ばしても、その方が経済的に良いのなら騒音には気を留めないかも知れません。


さてゲートウエイとは、情報が通過する門です。つまり人ではありません。なるほど、そういう場所にする可能性はありますね。すなわち人はほとんど不要で、コンピューターやロボットで成り立つ都市。
で、働くのは日本人ではなく外国人が主になる。
だから本来なら泉岳寺がすぐ傍なのだから駅名は当然「泉岳寺」にすべきなのに、これは仏教の名前だから外人には似合わないし、敵の神になってしまうのでこの案は没にされれた、そういう気もしますねえ。

いづれにしても、これらを踏まえたうえでこの都市を作らないと間違いなく天罰は下されると思いますよ。バブル崩壊という天罰もありましたよね。

しかし、もしこれらを踏まえて何か新しい方向を見いだせたら、それはエデンの園になる可能性も無きにしも非ず。


最後の写真、教会かと思ったら警察署ですね。なんか飛行機のシルエットに似合うなあ。

平成最後の夏が未だ先のころ ~ 西部邁氏へ捧げて




平成最後の夏が未だ先のころ ~西部邁氏へ捧げて


改めて西部氏とはどんな人だったのかを色々調べてみました。もちろん彼の言論は色々あったようなのですが、もう一つ力を入れていた事があったようです。それは「歌」です。


西部氏はカラオケが好きだった事が次のビデオで紹介されています。しかもかなり歌に関しては色々とうんちくがあったようです。それがどの様なものだったのかは私などにはその場にいた訳ではないので知る由もありませんが、その一端がこのビデオからうかがえます。



日本の歌鮫島有美子西部邁ゼミナール 2014年9月14日放送


これで驚くのは、天下のMXテレビで伴奏も無しに、なんとプロの歌手がいる前で鼻歌で歌を歌っているのですね。よほど自分の声に自信が無くては出来ませんよね。プロ歌手ならばそんなことはボロが出るから絶対にしないでしょうね。まあ、ワンフレーズ位ならふざけてやるかもですが、ワンコーラス行ってます。


現在の日本には様々なプロ歌手がいるのに、俺のが上手い、とでも言うかの如くのパフォーマンスは、さすがです。その通りそのパワーに圧倒されたのでしょうか?同席した歌手は音程が少し不安定になってしまいましたが、それにもめげず西部さんは自分の音程を押し通しました。このパワーにプロ歌手さんはかなり焦って動揺したかもですね。


よく聞いてみるとこの時の西部さんのメロディーの取り方はかなり完璧でした。ワンフレーズ歌ってコマーシャルが入って休憩し、次のカメラスタートからさんざ話した後、続くワンフレーズをアカペラで歌ったのですが、キーは全く同じに正確に始めてました。よほど音感が良くないとこれは難しいです。っとまあ、それを聴きとったのも中々か?、ゴホ。


少し聞いただけですが、なかなか素直な声で、仲間からは褒められていたようですから、本人もその気になっていた事はこのビデオから分かります。


さて、そこまで彼が歌謡曲に思い入れがあったようなのですが、では主に何を歌っていたかというと、どうやら軍歌もメインの一つだったようです。しかも、歌詞にはうるさかったようですが、言葉というものには最大の知見の高い方ですから歌詞にこだわるのは当然でしょう。となると、少し思い当たるところがあります。


実は日本文化の源は万葉集に始まる和歌にある事が、放送大学の和歌の講義で言っていました。又、天皇陛下の重要なお仕事の一つが和歌を伝える事であることは毎年行われている歌会始で知られています。そして放送大学によると和歌の最終形がアララギ派であるとなっていました。


そして、そのアララギ派、アララギ派風な考え方はその後どうなったかというともしかして戦後否定されたのかも知れません。というのもアララギ派の人はヒットラーの詩を書いたりとかしていましたからね。


では、日本語文化の源である和歌の主流だったアララギ派を受け継ぎ代弁する日本語の歌が出来たのか?というと、現在の歌謡曲は日本語を英語っぽく発音してまるで日本語の否定のような歌ですし、残念ながら演歌はボサノバのように世界へ広まっている訳でもなく、世界へヒットした日本の歌は「上を向いて歩こう」の他に無いに等しい状況です。


最後まで日本人とは何か?を問い続けた西部氏がここまで軍歌を押していたのも、「俺には軍歌しか歌えなかったけれど、だれか俺の代わりに世界へ通用する日本人の魂の詩を歌ってくれよ」と、言っていたように聞こえないでしょうか?


そんな訳で、もし10年後に世界へ誇れる日本語の詩歌音楽がヒットするとしたら、その源流が西部氏の魂にあったのか?、となる事を想定してこの詩を書いた事になっていたのでした。なんかマタイ伝っぽい予言詩の形ですねえ、ッと自画自賛。