TORUS

写真と言葉たち

山手線とコラボレーション

かなり大きな音で山手線が通り過ぎている時に、かなりの速足で坂道を下りてくる日傘の女性がいました。ちょうどタイミング良くコレボレーション出来ましたが、もしかして、カメラを意識して避けて急いでいたのかもしれませんが、大丈夫ですよ、日傘の影で個人識別は出来なく写っていますから!

突然現れたピースマン


何処を撮ろうかとファインダーをのぞいていたら、突然自転車に乗った人が来たところでシャッターを押してしまいました。後で見たら、少し東洋人風の彼はここへ来る前から写されるのを狙っていたらしくピースサインを作っていましたが、そう、こういうおおらかな雰囲気の人って昔は結構いたのですよね。だいぶ世相が変化してしまいました。


でも、もしかすると外人から見たら日本で暮らすことは結構ハッピーな気分の人がいるのかもですね。御徒町も完全に中国化していてしかも、そこの店員はみんなとてもハッピーそうに仕事していますものね。まあ、日本にとっては中国化するのは避けられない方針なのでしょうが、これに関して文句を言う日本人殆ど居ませんね。


でも、彼のおかげで一つの作品が出来ました。まさに、真実の日本の姿です。

進行する方向などを指示する人たち。(ストリートフォト術)

渋谷の駅の周りはいたるところで工事中です。先日も山手線のホームの大工事が行われていて、いつも利用する私にとっては最も乗り換えに便利な乗車位置が変わってしまい、まだベストの位置が見つかっていません。


当然この渋谷はハチ公前辺りを中心に旅行者も多く、カメラを持っている人も沢山いる様に私にとっても被写体を確保しやすい場所でもあるのでした。


さて、渋谷駅南口の信号を待っていたら何やら行先を思案中の中国人旅行者風の方たちが話し合っていました。とっさにカメラを構えて構図を瞬時に決めてパチリと、超早業で決めてみましたが、後でチェックしたら、道の反対側でも同じように、行き先を指示している人が写っていました。よく見たら左端でも交通保安の方が交通の進行を指示している人がいて、計三人が進行する方向などを指示しているのが偶然にも、神の指示があったかの如く写っていました。ちょっと大げさかも知れませんが、こんな偶然は普通にはあり得ません。一枚の写真に撮ったからこそ分かる瞬間の出来事なのでした。


そうしてみると、傍のもう一人の信号を待っている方はきっと行先はもう既にハッキリと理解していると思われますね。周りの人の他人の指示には関係なく我が道を行く決意があるのは、良く分かります。と、まあ、いろいろ妄想すると結構見れる一枚なのですよ。中国人の女性は話すとき腰に手を当てるってのも日本人にはあまり無いかも、とか。


さてさて、私も基本的にストリートカメラマンなのですが、つまりは通行人を主に撮っている訳なのですが、だんだんと撮り方の方法がマイ術として少しづつわかり始めてきました。


兎に角ストリートフォトを撮るには危険がいっぱいなのです。つい最近でも「警察へ行きましょう。」と、怒られましたよ。でもこちらは別に犯罪になる様な撮り方はしていないし、撮ったものを見れば単なる通行人ですからすぐに犯罪とは関係ないのが分かるので、その人も納得はしましたが、たしかに、撮る時にはしっかりと撮る格好をしてみんなに私はカメラマンだという認識をさせなければならないのだな、と一つ教訓を得ました。


だけれども、確かに無断で人を撮るのは犯罪に近いものも少しはあるのです。これはアリストレレスのプラトンの弁明の話と少し似ているものがあるのですね。あ、これは私の独断の解釈ではありますが、つまりは、真実とは追求しすぎると究極的に犯罪になる事もあり得る、まあ、一般法律の犯罪ではなく、神から罰を受けるかも知れない、という事なのでした。


つまり、歩いている人とはいわば皆神の指令で動いているとします。それをカメラで撮ってその指令を暴くと、神がせっかく秘密に動かしていたのにそれを私がカメラで暴いてしまうのは、さて、必ずしも神の意向なのでしょうか?そういう訳で、私がもしかしたら暴いてはいけない事をカメラに収めてしまうのは、かなり、神の意向に背かないことをする可能性もある訳なのです。


まあ、そんな訳で、撮る時は十分に周りから嫌われないようにスマイルをキープしつつ、「私は良い人です。」をアピールしつつ作業を心がけようとしています。もちろん、他人を正面から撮ることなどは絶対にしませんし、そんな度胸はある訳ないし。どうカメラを構えるかのいくつかの安全なやり方を身に着ける必要もあります。


その安全策として必然的に後ろから撮る事が多くなるわけなのですが、しかしさて、後ろから撮っても絵になる人はなかなか居ないのですね。行けると思っても撮ってみたら没、というのもありますし、その逆もあります。そんな訳で、撮る枚数はかなり多いです。その中から肖像権に触れないものを選択していくという訳です。

どうしても、没にしたくはない一枚だけど、見知らぬ顔がハッキリと写っちゃった時などはフォトショップで削除したりします。これはテレビで宣伝している様に中々すごいAI機能なのです。この機能が無かったら、私の作品は成り立ちません。

ところで、インスタで世界の写真家のものをいろいろ見ていますが、やはりこの件はなかなか大きな問題で、どういう風に街の人を撮ったらよいのかは皆さん苦労している様子が分かります。そこで最近気が付いたのは、実は顔が個人判別できる様な一般人の顔写真だからといって実はたいして面白い、とは限らないのですね。仮にその写真に写った人がどんな人かがすぐに分かるからといって、それは単なる一般の人の顔なのであって、アート的に面白い写真なんてものは実は少ないのですね。ああ、そんな顔をを公表したところで、どこが面白いのだろう?と思うだけで、むしろ、顔がハッキリしていないほうがアート的には面白いものは沢山あります。

そう、実は最も基本的なストリートフォト術とは、「個人識別が出来ないように撮る。」という事なのかもしれませんね。こう考えると結構気が楽になれます。皆さんもストリートフォトに挑戦してみましょう!

蛇足
多くのストリートフォトグラファーは最初から人を避けて撮っているか、撮っても単なる背景としている方がほとんどです。でも実はちゃんとした人物が効果的に入ると段違いでクオリティーがアップするのですね。特に、今流行っているのが、個人識別できないくらい真っ黒の人を一人だけポツンと構図に入れるスタイルです。これ世界では本当にやる多くて、人気のストリートフォトグラファーのトップクラスの人はみんなこの手法をやっているのです。これも、「個人識別が出来ないように撮るけれど、アート性は確保する。」という苦肉の、でも効果的な策なのでしょう。

赤信号とハートのある風景

目黒駅南口の交差点は中々わたるタイミングが難しいのです。ある時間だけ斜めに横断できる時もあり、青になるタイミングがつかみづらくフライングする人も結構いたりして。


実はそういう私もこの前若干フライイングしたら、傍にいた数人のグループの一人が、「兎に角安全第一が一番」とつぶやいていました。

目黒セントラルスクエアにて(続)アートが伝える真実

ここには面白い形をしたモニュメントがあります。しかし、そこにはこんな張り紙が!

確かに子供がここに上るのは危険でしょう。でも、子供だってここへ上るのは可成り勇気が必要ですから上るのはふつうためらうとは思うのですが、まあ、事故が起こると困るから警告のつもりなのでしょうが、でも、これってこれを作った人にとっては侮辱ですよね。こんな張り紙をされたらアート性は消え去ってしまいます。


この張り紙はおそらく無料素材を利用したもので、いわば、この建築した建築アーティストが作った作品への、攻撃的一撃です。明らかに、もっと人の事を考えた人にやさしいものを作れという意味がはっきり分かります。


このモニュメントの傍にはこんなものもあって、全体で一つのモニュメントなのでしょう。

よく見ると端のほうは他にもあるものと同じ座れる形状なのですが、少しづつ座りずらい角度になっていき、その先のモニュメントの主題は全く座る事の出来ない形状です。


多分これを見て、「最初は庶民でも座れるような形状になっているけれどその先には座れない形状になっていて、庶民を無視した無駄な構造である」と判断したであろうことは、その様な政治的判断をするある団体が考えそうなことですね。

他にも巨大な似たようなモニュメントがありまあす。よく見ると、上と同じ張り紙が貼ってあったようなノリの跡が付いています。


なので、明らかにこの空間には、アート的デザインを拒否する雰囲気が満ち満ちていますね。


でもアートとは、特に実生活に便利に使える機能は必要とは限らないのです。何しろアートとはもともと庶民から出てきたものでは無くて貴族や宗教から発生したものであり、アートとは神や真実と関係があるものなのでした。なので、ここにある様なアート作品はアート感覚の無い人から見たら無駄なものに見えるのでしょう。


さて、確かに座れる形状からだんだん座りずらい形状になっていますが、この作品をよく見ると、一番の目立つモニュメントは駅からここへ来る玄関口にあたる場所に設置してあります。


すなわち、外から来たら最初に出くわすのがこの大きな登ると危険な鋭い形状のドンとおいてあるモニュメントです。そこから、少し離れてまるで、その巨大な鋭い形状が頭だとしたら、そこから発生した帯がだんだん座れる形状になっていき、ベンチとして利用できる形状になっている、とも見えるのです。


つまりこのアートモニュメントの主題は、「我々はこのビルを最先端の技術で構築し、他のビルとも共に戦い切磋琢磨し業務に勝利することを目標とし、これを実現するために巨大な悪の相手であってもこれを破壊する装置を先頭に設置したが、一旦我々の敷地内に入った友人は安らぎのベンチで疲れた心を思う存分癒して下さい。」みたいな?ものと想定できるでしょう。


成程、確かにこのアートは上から目線で考案されたものですね。でも、それは無理もありません。こういうものを制作できるのは庶民では無いですし、デザインできるのはそれこそセレブのデザイナーでなければ仕事も来ません。そういう人たちに庶民感覚はある筈はありません。たぶん、「もしこのモニュメントに子供が登って怪我をしたとしても、それは、些細な問題で我々(外国人?)には関係ない。」っという意味も確かに少しはあるかもですね。


そんなわけで、このアートモニュメントも、このままではこのアートに貼られた張り紙も一体となって表現されていてここから伝わる事は、「このスクエアはアートを拒否する心の貧しい人が来るところです。」となっています。


本当にアートとはどんなレベル、神に近いものでも庶民に近いものであっても真実を伝えてしまうのですよね。アートって怖いのです。


このモニュメントにはいわば最近中国の誰かが言った「天罰が落ちるぞ」の天罰がすでに落ちかかっているのでさあて、どうなるのか?このモニュメントが反撃の天罰を下すのか、より強力な天罰がこのモニュメントに下されるのか?天はどう裁くのでしょう?


そういう意味で、今度作る渋谷のサクラステージ、という名前は良いなと思います。あの近くには桜が満開になると凄い奇麗な坂があるのですよ。そういう現実の事実である真実を象徴としているのは良いアイデアだと思いました。ただ、サクラを、さくら、と平仮名にした方がベターだとは思いますけどね。