三人組の若者が仲良く整列しているかのように街の角を曲がって、どこかにある共通の目的地へ向かって、とにかく寄り道する気もなさそうにさっさと歩き続けているようです。
遠目からだし、ハッキリと顔が見える訳でもないのですが、三人とも共通のグループに属している風に見えるし、おそらく真実は大学のサークルとかであろうと思われるけど、たとえ違っていても、そう大きな違いはないのでしょう。
又、道の反対側には電柱の傍でスマホをしている人がいるけれど、なぜ電柱の傍なのか?多分、もしトラックがぶつかってきたら電柱で防御できるかの知れない?と、思っていたのかどうかは分かりませんが、無意識のうちで電柱の傍にいると安全であろう、と思ってそうしていたのでしょう。
恵比寿駅前のバス停で仕事帰り風の人たちが整列している脇を、駅へ向かう人、駅から出てきた人たちが通り過ぎていて、誰もがただボーっと立っているのではなく、それぞれの目的を本人に直接聞かなくても写真からはいろいろ妄想出来きます。
例えば、スマホをチェックしながら駅から出てきた人は、明らかに、仕事がらみのメールではなく、友達とラインをやっているであろう事は可なりの高い率で真実でしょう。
そうなのですよ、たわいのないこの写真に写っていた人たちは、だれもが、つくられた物語で真実ではない作られた演技をしている役者などではなく、嘘偽りのない現実の世界で、真実の自分の姿を表現している人たちなのです。
この意味で、写真とは真実を写すものなのでした。
ある日の雨上がりの恵比寿駅近くにて、、。
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後述です。
このタイトルの「写真は真実を写す」というのに否定的な考えが結構ネット上にはありますね。真実として!ん!「写真」という日本語の意味は文字通り、「真実を写す」という意味です。
例えば「写真という言葉が日本人を苦しめる」という事から、「写真はアートである」として「写真は真実を写さない」と結論する意見もあるようですが、実は「アート」とは「真実を写す」ものなのですよ。ですので、写真は真実を写すのは正しいのです。
「よく、撮って出しが本当の写真だ」という人がいますが、それは違います。確かに、カメラワークで最も重要なフレーミングは撮って出しでほぼ決まるのですが、撮って出しは、まだ単なる機械が作った画像です。まあ、カメラ製造技術者が関与して画像を作ったから、カメラ製作者が作った画像かも知れませんね。
アートとは人間が創作した、自然ではなく人工的なものなので真実ではないという意見が多々あると思いますが、実は本当のアートとは、人間が真実を模索して表現するべきものなのですよね。つまりアートとは真実そのものなのです。
アートとは何であるかは放送大学で勉強すると分かりますよ。真実を言葉で表すのが詩であり、カメラを使って得た機械画像をフォトショップで加工して真実に近づけた画像にしたものが日本語でいう写真なのです。なので、日本語でいう「写真」とは「真実を写すもの」、というのは真実なのでした。そう、日本語とは本当に素晴らしい言葉なのですよ!
同じ概念を、アートや真実という言葉は神に指示されて人間が作り出した言葉なのでしょう。
・・・・・・・マイメモ・・・・・・・・・・・・・・・・
神と概念と言葉の関係
神は言葉を話せません。
概念は神の世界にあるものです。
ある概念を言葉にあてはめる事は人間にしかできません。
ただし、ある概念に気が付くのは人間にしかできませんが、良い概念に気が付くのには、運も必要なのであり、それこそ神の指示がないとなかなか素晴らしいと思えるような概念には気が付くものではないのでしょう。